S川氏というフリーの方がいる。
我らの兄貴分にあたるような人だ。

もう何年も前だが、S川氏は銀色のFTOに乗っていた。
FTO、FTOである。
高級な車である。
私なんかそのころ、軽い追突事故を起こしたものの、車検も近いし結構修理に金もかかるし、何より面倒くさいから、という理由で、ボンネットのフロントガラス側が2センチくらい開いている、どっかの駐車場に止める度に警備員さんから「ボンネット開いてますよ?」と親切心からの言葉に心を幾度となくえぐられまくった、哀愁漂う中古の青いアルトに乗っていたと言うのに。
くそぅブルジョワめ、団結せよプロレタリアート!

……話が嫉妬まみれの醜い方向に大幅にずれてしまいそうなので、戻す。

ある日、S川氏が夜中にふらりと遊びに来た。
雑談をしていたら何故か近所の居酒屋で飲もうかという流れになり、その晩は大いに愉しんだ。
ちなみにS川氏は車で遊びに来たそうで、近所のスーパーの駐車場に停めていたのだが、さすがに飲酒運転はマズイので、我々は全員事務所に泊まり、S川氏は電車で帰り翌日車を取りに来ることにして、その日はお開きとなった。

だが、それがいけなかった。

翌日の昼ごろ、みんなうち合わせなどで出払っていて、私しか事務所にいなかった時、S川氏がげんなりした顔で事務所にやって来た。
「もっちー、ちょっといいかいなぁ? これ、見てほしいんやけど……」
普段のはつらつとしたテンションとは違う、明らかにヘコみ気味な口ぶり。
いぶかしみながらも言われるがまま事務所の外に出ると、そこにはS川氏のFTOが止まっていた。
ボンネットに、さながら日の丸のような大きな赤い塗料をかけられた無惨な姿で。
「え、いや、どうしたんっすかコレ……」
「いま車取りに来たら、なんかこんなんされとってさぁ……」
呆然とFTOを見つめる二人。
スーパーの近くには、確か中学校だか小学校があったはずで、おそらくはそこの悪ガキのいたずらに違いなかった。
「しかしこれはまた……」
いたずらにしても、程がある。
「どうかいな、もっちー。これ、落ちると思う?」
「んー、どうかなぁ……」
持っていたちり紙で赤インクを撫でてみると、ずるり、という感じで延びた。
赤い部分が拡げられたことに対してS川氏は少々憮然とした顔をしながら「あっ」と小さな声を上げたが、これは不幸中の幸いを示す事でもあった。
やられた時間はわからないが、少なくとも自動車のボディになじんでしまうような塗料では無い。つまりは水性塗料ということである。
「あー、多分これ赤いボールペンの中身っすねー」
「え、マジ!?」
「ええ、おそらく。だから、水洗いすれば何とかなるんじゃないっすかね?」
S川氏の瞳に、生気がよみがえる。
「あ、悪いけど落とすの手伝ってもらえるかいな?」
「ええ、そりゃもちろんいいっすよ」
だが事務所には、長いホースはもちろんながら、バケツも無ければぞうきんもない。
住み着いている人間がいるにもかかわらず、人間の生活的見地からみれば何かが欠けている事を露呈してしまったが、とにかくそういう便利アイテムは無かったのである。
そこで二人が目を付けたのは、事務所内に不自然なまでの量が転がっている、2リットルの空のペットボトル。
それらは軽く20個はあったのではないだろうか。
(何故そんなことになっていたのかは、次回に譲る)
我々は次々にペットボトルに水を蓄えていく。
それから手分けして、合計40リットルの水とキッチンペーパー1本を持ち、FTOの元へ走った。これだけで、嫌と言うほどの重労働である。
「んじゃ、かけてみますね」
ボンネットに注がれる水。
「おおっ!」
S川氏の歓声が上がる。
透明な水は、バンパーからしたたり落ちる頃には真紅に染まっていく。
「やった、やったよこれ、いけるよこれ! よかったぁー」
水をかけながらキッチンペーパーで拭い取ることしばし。
FTOから、日の丸が消えた。

かくしてS川氏を襲った悲劇は、去った。
だが、その跡には別の問題が発生していた。
二人して動揺していたため、インクを洗い流す作業は事務所前の道路上でやってしまったのである。
ボンネットから赤いものは消えたが、それはつまり、アスファルトを赤く染めたということである。
他の住人がびっくりすることは間違いないため、我々はボンネットにかけたのと同量の水を運び、道を掃除する事となったのである。
しかし道路上から完全に赤味をぬぐい去ることは出来ず、それらが完全に消え去るには、結局2回くらいの雨を待たねばならなかったのであった。